- 頭を壁に打つけても曲は生まれない -
2014年初め、ゴーストライター騒動で「作曲家」という職業が、珍しく、数多くのメディア関係者によって特集を組まれるなどして取り上げられる事となりました。
今回、私、薮田翔一が、この話題を取り上げる事にしたのは、ある“演奏会後の質問コーナー”にて、「作曲家は、“苦悩”や“苦痛”を重ねて作曲をされているのですか?」と言う質問をお受けしたためです。
私は質問者の方が何を考えそのような質問をされたのか分からず、その質問の意図を図りきれずにいると、次のように質問の主旨を説明して頂きました。
「先日、“ゴーストライター騒動で有名になった作曲家”のドキュメンタリー映像を見たのですが、彼は作曲の際、死をも覚悟するような苦しみの中から音楽を紡いでいたように思うのですが、それは一般的な作曲の方も同じなのですか?」
お恥ずかしい話なのですが、その質問を受けた時、私は“話題となっていた作曲家の方であるS氏”の事を全く知らず、映像も見ていなかったため、質問者の方が「どのような(どこまでの)回答を期待しているのか?」、その深い内容まで汲み取らないまま返答してしまい、“最良の回答”を返す事ができませんでした。
しかしながら、その後、映像を拝見した上でもう一度質問の意図について考えてみると、要約質問の意味するところを理解し、作曲家としての職業や、曲作りについて、多くの方が「誤解されていたり、疑問に思われていたりする事も多いのかな?」と言う思いを持つようになりました。
そこでここでは、その時の質問に再度回答する意味と、多くの方が持つ作曲家に対する疑問に答える意味も込めて、「作曲家による作曲とは一体どういうものなのか?」と言う事について書き綴ってみる事にしました。
作曲家(芸術家)に対する一般的なイメージ
「作曲家による作曲」について語る前に、「作曲家(芸術家)について、多くの方々がどのような意見やイメージを持っているのか?」と言うお話をさせて頂きたいと思います。
私は作曲家と言う職の関係上、“音楽家”や“演奏家”のみならず、一般的に“芸術家(アーティスト)”と呼ばれる方々とも接する機会が多く、展覧会や展示会等に招待される事で、一般来場者の方々とお話をさせて頂く事もしばしば有ります。
そのため、“作曲家(芸術家)に対しての様々な意見や感想等”の生の声を耳にする事も度々有り、そこで聞いた全体的な意見としては、「変わり者(おかしな人)・通常の神経では無い・貧乏(金銭的事情)」と言ったようなものが主で、残念ながら、私の立場的には「手放しでは喜べないイメージを多くの方が作曲家(芸術家)に対して持たれている」と言う印象が有ります。
しかし、確実に言える事は、「社会に出て結果を残し、既に有名になっている作曲家(芸術家)」と言う括りで言うならば、少なくとも、その方々に対しては「変わり者・通常の神経では無い・貧乏」と言うイメージは該当しません。
それにも関わらず、この様なイメージを持たれている方々が多いと言うのは、「芸術作品を作るには“一般とは乖離した感覚”を持っていないといけない」と言った考えが“一般的に広まってしまっている事”が大きな要因になっていると思います。
ですが、「芸術作品を作るために“一般とは乖離した感覚”が本当に必要なのか?」と言うと、実際のところ、私達作曲家は、“人とは違った発想”は大切にしていますが、“一般とは乖離した感覚”は一切必要としていません。
もっと言及するならば、“変わり者”と呼ばれる“一般とは乖離した感覚”を持ってしまうと、「一般的な感覚からの距離感」まで分からなくなってしまい、“変わり者”としての感覚が創作に対しての大きな障害になり、さらには、どんなに良い物を作り上げたとしても、「その新しい発想を伝える際の足かせ」にもなってしまいます。
それは、私達、現代の作曲家(芸術家)が「職」として作品を作り上げていく上で、“作品に対する価値の証明”と“それを後世へと伝えて行く責任”も同時に持つためです。
つまり、「本物の作曲家(芸術家)の方々には“変わり者”と呼ばれるような人はいない」と言うのは必然的であり、言い変えるならば“変わり者”だからと言って芸術家として生き残れるほど「現代芸術の世界は甘く無い」とも言えます。
作曲家(芸術家)による創作
「著名な作曲家に“変わり者”はいない」と言う事を理解して頂けたと思うのですが、話が大きく脱線してしまいまので、もう一度主題へと戻り「作曲家は、“苦悩”や“苦痛”を重ねて作曲をされているのですか?」と言う問いに回答させて頂きたいと思います。
“話題になった作曲家の方”は、一般の方が芸術家に持っている「苦悩に苦悩を重ね作曲家は曲を生み出す」といったイメージとピッタリと重なるように「壁に頭を打ちつける行動」や「テレビの前でもがき苦しむ」と言った様子で作曲活動を行っていました。
あの様子は、通常の感覚では全く理解する事ができない、所謂、「“変わり者”と言う風に見える行動」であったように私の目には映りました。
もちろん、作曲家は「悩みに悩み抜いて楽曲を作っていく」と言う事は“真”なのですが、実際に、作曲の過程においては、「膨大な集中力」が必要とされ、特に、“ここぞ”と言う場面の創作においては「爆発的な集中力」が無ければ話になりません。
正直なところ、そのように集中し、全身全霊を掛けて没頭している作曲過程において、「苦しみを体で表現」したり「カメラに向けてのパフォーマンス」をするような余裕は無く、ましてや「壁に頭を打つけている」ような状況では一切有りません。
頭を打ち付けて生まれるのは、残念ですが“たんこぶ”だけで名曲では有りません(逆に、それで名曲が生まれるのであれば、過去の偉大な作曲家達の頭は“たんこぶ”だらけとなっていますね(笑))。
社会に認められているような作曲家の方々(少なくとも私の知る限り全員)は、もっと繊細なところで心と精神を極限まで高め、作曲に打ち込んでいます。
作曲家にとっての作曲の苦悩
私達、作曲家(芸術家)は自分達が作品を生み出す事に対して人生を捧げており、そこに“生きがい”や“生きる道”を感じ、その中で生み出された作品が“人類の将来への遺産”になる事を信じています。
どんなに作曲過程が困難で有ったとしても、「音楽に携わっている」ことこそが喜びで有り、言い変えれば「それしか生きる方法を知らない」とも言えます。
そんな“命とも言える音楽”を生み出す過程で通る「苦労や苦悩」が、「新しい音楽を生み出したい」と心から願う者にとって、「地獄のような苦しみで有るはずは無い」、もしくは、私達作曲家は音楽によって生かされている以上、そもそも、「音楽に対しての“生みの苦しみ”について語る資格すら無い」のかも知れません。
EDGE 概要
作曲家の登竜門である「音楽情報第80回日本音楽コンクール」で2位入賞を果たした「EDGE」は、「静寂の中に突如として現れる激しい音の可能性」を体験して頂きたい一曲です。
曲は二部構成から成り、音楽が1つの音から次の音へ移行する瞬間のEdge(鋭さ、端)をメインテーマとして掲げた作品でも有り、音の一片一片が「鋭い破片となり集積していく様」をイメージして頂ければ幸いです。